その他の史跡

庄方観音

庄方観音

狗留孫山法華寺

別名「庄方観音」と呼ばれ親しまれている。

金剛峰寺の末寺。毎年2月18日に縁日が開かれ、多くの参拝客で賑わう。本尊は聖観音、不動明王、毘沙門天等。


深谷十三佛

深谷十三佛

十三佛の信仰は、浄土信仰に基づいて死者の追善の法事を修めるとき、その年忌に配された十三仏を信仰して極楽往生を願うものであり、深谷の十三佛はそうした供養を生前に行う(逆修)ものとして作られたものである。


船路八幡宮

船路八幡宮

社伝によれば、天穂日命の出雲降臨の際に陽悦山の麓に奉祀したのを最初とし、御坂大明神と呼ばれていた。

社殿焼失により宮河内に移鎮、応仁元年(1467)の洪水により社殿流失、現在地へ移転された。明治4年3月神紙宮通達により「御坂」の社号を止めて、「船路八幡宮」となった。


三坂神社

三坂神社

当社は日清・日露戦争の際、武運長久を祈願した人が全員無事に帰還したことが報道され、「弾除けの神」として有名になった。第二次世界大戦がはじまると、武運長久祈願のための参拝者が増え、1日800数人になることもあったという。終戦と同時に参拝者名簿は焼却され、奉納写真の大部分は送り返されたが、1万点余りがいまだに保管されている。


出雲神社(堀、「二宮」バス停より徒歩3分)

出雲神社

霊亀元年(710)出雲国出雲大社から勧請したのにはじまるとされ、延喜式に名神として両祭神があげられ、旧徳地町では格式高い神社で、周防国二宮として尊崇されている。

お宮の横の大杉は、根回り12.5m、幹回りが8.3mもある老木で、古くから御神木として石の玉垣で囲み保護されている。社は、天然記念物に指定され、ツルマンリョウの自生をはじめ、大杉等の貴重植物の宝庫でもある。


雨田公園

雨田公園

明治三傑僧の一人、黙雷上人の記念家屋、雨田草堂があり、憩いの場となっています。


雨田草堂

雨田草堂

島地上市にある雨田草堂は、島地出身の明治の傑僧黙雷上人の記念家屋である。雨田とは黙雷の雅号をとったものである。黙雷は和田に生まれ島地の妙誓寺の養子となった人で、晩年は教育事業に尽くしたといわれている。


花尾八幡宮

花尾八幡宮

島地下市にある鼻緒八幡宮は九州宇佐八幡宮から勧請され創建されたものである。その後天正の2回にわたり火災にあい、御神体を大字島地字石曽根に移されたが、天正2年(1574)8月、現在のところに社殿を造営し、天明元年(1781)に改築された。その後社殿の腐朽により、昭和33年12月修理起工し、昭和35年8月竣工したものである。

社殿は八幡宮の建築様式により拝殿は平安時代の寝殿造りを縮めたような型をとり、左右両側に対象的の間を設けてあるのが特徴である。この間の外が蔀式になっており正面の昇るところに階段を設けてある。このような建築様式は珍しく「八幡造り」とでも称すべきか、本殿は拝殿よりも更に高い位置に在って流れ造りになっており拝殿と本殿は階段によって連なっている。総体に朱塗りで屋根は銅板をもって葺いている。

(徳地町史より)

 


花尾八幡宮青田祭り

花尾八幡宮青田祭り

田植えを終えた8月初旬ごろ、虫除けや風水害から稲を守る大切な行事として行われる。


法光寺阿弥陀堂の仏像(県指定文化財)

法光寺阿弥陀如来座像

【阿弥陀如来坐像】

阿弥陀如来の本尊として安養寺創建とともに造られたもの。像高128cm、下ぶくれの円相、柔らかい文線、一本造りの伝統をもつ古式の木寄せなど、全体的には藤原末期の特徴が随所に見られるが、目の線がしのぎたち顔面をひきしめており、がっしりとした肩の張り、堂々とした躰躯には豪快な作風が見られる。納衣の衣文も簡略であるが、彫りは力強く鎌倉初期の作調がある。

 

【菩薩形立像】

像高142cm、彫法は主体的に藤原末期の様式を表わすが、厳しさのある面相、張りのある躰躯には鎌倉風が見られる。本尊阿弥陀如来坐像の脇侍として同時に造顕されたものである。

 

【十一面観音菩薩立像】

像高105cm、檜材で、円満な面相、動きはないが彫りの浅い衣文線、天衣、条帛裳のあつかい、躰奥は薄いが、すらりとした姿勢など藤原末期の作風と見られる。

阿弥陀堂の他の四仏と比較すると作域もあり造顕の時代もずれていたものを本尊阿弥陀如来坐像の脇侍としたものと推定される。

 

【不動明王立像】

像高187cm、檜材の一木造り。本尊を安置する須弥壇を守護するために造顕されたもので、裳の衣文など弱々しいが、顔、上半身には力があってしっかりしている。

 

【毘沙門天立像】

像高188cm、像全体に様式的に藤原末期風であるが、張りのある面相、がっしりとした堂々たる躰躯などは鎌倉調があり、安養寺創建当時の造顕と推定される地方作ながら保存もよく作成もすぐれている。

(徳地町史より)

 


俊乗房重源

1180年平重衡による南部鎮圧の際、焼失した東大寺再建のため「大勧進職」に命ぜられた重源は1186年周防国に下向し、8月には杣作業を開始している。

彼の仕事は用材確保が第一であるが、同時に東大寺造営料国となった周防国全体の国務をも管掌した。

得地保の深山に分け入った彼は、活動の拠点として安養寺(現法光寺)等を建立し、念仏を広めながら勧進活動を行った。苦心の末確保された用材により東大寺は再建され、1201年東大寺総供養が営まれ、再建事業はほぼ終わった。

彼の周防国管理は文治2年から建永元年までの21年の永きにわたった。

串法光寺の阿弥陀堂は、文治2年に重源上人が創建した安養寺古跡で、阿弥陀如来坐像の外観音、勢至菩薩、毘沙門天、不動明王及び重源上人自作の上人像など、八百年前の仏道を安置している。