佐波川関水

佐波川関水

周防国は文治2年(1186)東大寺再建の際、その造営料国にあてられ俊乗房重源上人が国務管理の役に任ぜられて陳和卿や番匠物部為里・桜島国宗ら十余人を従えて佐波川をのぼり、佐波郡の奥地で杣始めの式を行った。当時は鬱蒼たる森林地が連なっているので、良材を求めることもさりながら、最大の難工事は切り倒した巨木を山から佐波川べりへ搬出することであった。巨材はろくろ台を直径15cmの綱で数十人がかりで回して引き、佐波川岸まで引きおろしたが、搬出路は雑木林を切り払い行く手を遮る岩石は砕き、谷には橋を架けなければならなかった。

こうして川辺りまで搬出された巨材は、佐波川の水運を利用して三谷川・引谷川の落合のところに設けられた木津に集め、東大寺から任命された山行事職がいて木材の検査をして合格したものに「東大寺」の極印を打ち、また河水を利用して海まで運搬したが、水深が浅いので巨材は浮いて流れない。その一隅に幅9尺(3m)、延長23間(46m)の水路を作り、川底を石畳みとし、材木を流したもので、これを「関水」という。

関水は、東大寺造立供養記によれば、木津から海に至るまで7里の間、関水を設けるところ118か所と見えている。木津よりも上流にも多数の関水を設けたのであるが、現在はただこの1つのみが残っている。

この関水は後世川舟の通路に利用したので、これを「舟通し」とも呼んでいた。なお、関水の指定区域内には、僧取淵・坊主木などの伝説がある。

(徳地町史より)

 

 

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